はじめに
2025年、生成AIのビジネス活用は、あらゆる産業で加速の一途をたどっています。特に、高度な専門知識と厳密な正確性が求められる分野において、生成AIをいかに効果的に、かつ安全に導入するかが企業の競争力を左右する重要な要素となっています。その中でも、金融機関の勘定系システム開発という極めて複雑でミッションクリティカルな領域において、新しい生成AI技術の導入が注目を集めています。
本記事では、ソニー銀行が富士通と共同で勘定系システム開発に導入を進めている「ナレッジグラフ拡張RAG」という生成AI技術に焦点を当て、その仕組み、金融システム開発への応用、もたらされる変革、そして今後の課題と展望について深掘りして解説します。
ナレッジグラフ拡張RAGとは?
生成AI、特に大規模言語モデル(LLM)は、膨大なデータから学習し、人間のような自然な文章を生成する能力を持っています。しかし、その性質上、学習データに含まれない最新の情報や、特定の企業が持つ専門性の高い内部情報については、正確な回答を生成することが難しいという課題がありました。また、誤った情報を生成する「ハルシネーション(幻覚)」も懸念事項です。
この課題を解決するアプローチの一つが、RAG(Retrieval Augmented Generation:検索拡張生成)です。RAGは、LLMが回答を生成する前に、外部の信頼できる情報源から関連情報を検索し、その情報を参照しながら回答を生成する技術です。これにより、LLMは最新かつ正確な情報を基に回答できるようになり、ハルシネーションの抑制と回答の信頼性向上に貢献します。RAGの基本的な概念については、以前の記事「拡張RAGとは?従来のRAGとの違いや活用事例、今後の展望を解説」でも詳しく解説していますので、ご参照ください。
そして、今回注目する「ナレッジグラフ拡張RAG」は、このRAGの概念をさらに進化させたものです。従来のRAGがテキストベースのドキュメントやデータベースを検索対象とするのに対し、ナレッジグラフ拡張RAGは、企業が保有する大量のデータの「関係性」を構造化したナレッジグラフを検索・参照の基盤として活用します。
ナレッジグラフとは
ナレッジグラフは、情報に含まれる「エンティティ(実体)」とその「関係性」をグラフ構造で表現するデータモデルです。例えば、「AさんはB社の社員である」「B社はC製品を開発している」といった情報を、「Aさん —(社員である)→ B社 —(開発している)→ C製品」という形で、ノード(エンティティ)とエッジ(関係性)で視覚的・構造的に表現します。
このナレッジグラフの利点は、単なるキーワード検索では捉えきれない、複雑な情報の繋がりや文脈を明確に表現できる点にあります。例えば、「Aさんが関わる製品」を検索する際、Aさんが所属する会社が開発している製品までを効率的に見つけ出すことが可能になります。
ナレッジグラフ拡張RAGの優位性
ナレッジグラフ拡張RAGは、このナレッジグラフをRAGの参照元として組み込むことで、以下のような優位性を実現します。
- 高度な推論と文脈理解: ナレッジグラフによって構造化された情報は、LLMがより深い文脈を理解し、単なるキーワードマッチングではなく、エンティティ間の複雑な関係性に基づいた推論を行うことを可能にします。これにより、より高度で正確な回答生成が期待できます。
- 情報の正確性と信頼性の向上: 構造化された知識ベースを参照することで、LLMが学習データに依存しすぎることで生じる誤情報やハルシネーションのリスクをさらに低減します。
- 網羅的な情報取得: 特定の質問に対し、ナレッジグラフ上の関連情報を漏れなく探索し、LLMに提供することで、より網羅的で包括的な回答を生成できます。
- 透明性の確保: ナレッジグラフ上のどの情報と関係性を参照して回答を生成したかを追跡しやすくなり、AIの意思決定プロセスにおける透明性向上に貢献します。
このように、ナレッジグラフ拡張RAGは、LLMの持つ生成能力と、構造化された知識の持つ正確性・推論能力を融合させることで、生成AIの新たな可能性を切り開く技術として注目されています。
ソニー銀行における勘定系システム開発への適用
2025年10月、ソニー銀行は富士通と共同で、勘定系システムの機能開発に生成AIを導入すると発表しました。このプロジェクトにおいて、富士通が独自に開発した「ナレッジグラフ拡張RAG」技術が中核を担います。
勘定系システム開発の課題
金融機関の勘定系システムは、顧客の預金、融資、決済といった中核業務を担う、極めて重要かつ複雑なシステムです。その開発には、以下のような特有の課題が伴います。
- 膨大な既存コードとドキュメント: 長年にわたる改修により、膨大な量のコードと設計書、仕様書が蓄積されており、これらを正確に理解し、新規開発や改修に活かすのが困難。
- 高度な専門知識と規制対応: 金融業務固有の複雑なルール、法律、規制に対応する必要があり、専門性の高い知識が求められる。
- 正確性と信頼性への要求: わずかな誤りも許されないため、開発プロセス全体を通じて極めて高い正確性と信頼性が要求される。
- 属人化のリスク: 特定のベテラン開発者に知識が集中しやすく、人材の異動や退職によるナレッジロスのリスクが高い。
- アジャイル開発への移行の難しさ: 厳格な要件とテストが求められるため、アジャイルな開発手法を導入しにくい。
ナレッジグラフ拡張RAGによる課題解決
ソニー銀行と富士通は、これらの課題に対し、ナレッジグラフ拡張RAGを適用することで、「AIドリブンな設計体制」の構築を目指しています。具体的には、まず開発・テスト領域での活用を進めるとのことです。
この技術は、ソニー銀行が保有する過去の設計書、仕様書、運用マニュアル、コードなどの大量のデータを、富士通のナレッジグラフ技術を用いて構造化します。これにより、個々の情報が持つ意味だけでなく、それらの情報間の関連性や、システム全体の構造、業務ルールとの紐付けが明確になります。
生成AIは、この高度に構造化されたナレッジグラフを参照することで、以下のような形で開発者を支援します。
- 要件定義・設計支援: 新規機能の要件や変更点に対し、既存システムへの影響範囲や関連する業務ルール、過去の類似事例などをナレッジグラフから抽出し、正確かつ網羅的な設計案の作成を支援します。
- コード生成・レビュー支援: 特定の機能要件に基づき、既存のコードや設計思想に合致したコードスニペットを生成したり、既存コードのレビューにおいて、潜在的なバグや非効率な記述、仕様との乖離を指摘したりします。
- テストケース生成・分析: 開発された機能に対するテストケースを自動生成し、網羅性を高めます。また、テスト結果の分析において、障害の原因特定や影響範囲の特定を迅速化します。
- ナレッジ探索と継承: 開発者が特定のシステム機能や業務ルールについて知りたい場合、自然言語で質問するだけで、ナレッジグラフから関連情報を検索し、その背景や関連するシステム要素を含めて分かりやすく提示します。これにより、新任開発者でも迅速に知識を習得し、ベテランの知見を効率的に継承できるようになります。
特に、富士通のナレッジグラフ拡張RAGは、単に情報を検索するだけでなく、その関係性に基づいた高度な推論を生成AIに促すことができるため、勘定系システムのような複雑な論理構造を持つ領域での応用において、その真価を発揮すると考えられます。
ナレッジグラフ拡張RAGがもたらす変革と期待される効果
ナレッジグラフ拡張RAGの導入は、金融システムの開発現場に多岐にわたる変革をもたらすことが期待されます。
1. 生産性向上と開発コスト削減
AIによる要件定義支援、コード生成、テストケース作成といったプロセス自動化・半自動化により、開発者の手作業による工数を大幅に削減できます。これにより、開発期間の短縮と開発コストの低減が実現し、市場の変化に迅速に対応できる体制を構築できます。
2. 品質向上とリスク低減
ナレッジグラフに基づく正確な情報参照と高度な推論により、生成される設計やコードの品質が向上します。ハルシネーションのリスクを抑制し、既存システムとの整合性を保ちながら開発を進めることで、誤りや不具合の発生を未然に防ぎ、システムの信頼性を高めます。金融システムにおいては、品質の高さが事業継続の生命線となるため、この効果は計り知れません。
3. ナレッジの有効活用と継承の促進
長年蓄積されてきた膨大なドキュメントやコードの中に埋もれていた「暗黙知」が、ナレッジグラフによって構造化され、「形式知」として引き出されます。これにより、ベテラン開発者の経験や知見が属人化することなく、組織全体の資産として共有され、新任者への知識継承がスムーズになります。これは、人材不足が叫ばれるIT業界において、特に重要な効果と言えるでしょう。関連するテーマについては、「生成AIが拓く組織の「暗黙知」活用:競争力を最大化する新常識」もご参照ください。
4. アジャイル開発の加速
複雑な勘定系システム開発においても、AIによる迅速な情報参照と設計支援が可能になることで、変更への対応が容易になります。これにより、開発サイクルを短縮し、より柔軟かつスピーディーなアジャイル開発への移行を後押しすることが期待されます。
他の産業への応用可能性
ナレッジグラフ拡張RAGのポテンシャルは、金融システム開発に留まりません。同様に複雑な知識体系と厳密な正確性が求められる様々な産業での応用が考えられます。
- 製造業: 製品設計、製造プロセス最適化、品質管理、トラブルシューティングなど。設計仕様や過去の不具合事例、製造手順などをナレッジグラフ化することで、効率的な開発と品質向上に貢献します。
- 医療・製薬: 診断支援、治療法選択、新薬開発、論文探索など。医学文献、患者データ、薬剤情報、臨床試験結果などを構造化し、医師や研究者の意思決定を支援します。
- 法務・コンプライアンス: 契約書作成、判例検索、規制遵守チェックなど。法律条文、判例、社内規定などをナレッジグラフ化することで、リーガルリスクの低減と業務効率化を図ります。
これらの分野では、専門知識の深化と情報の正確性が極めて重要であり、ナレッジグラフ拡張RAGは、生成AIの活用において新たなスタンダードを確立する可能性を秘めています。
実装における課題と今後の展望
ナレッジグラフ拡張RAGは大きな可能性を秘めていますが、その実装と運用にはいくつかの課題も存在します。
1. ナレッジグラフ構築の複雑性
既存の大量な非構造化データ(テキスト、PDF、画像など)から、正確なエンティティと関係性を抽出し、ナレッジグラフとして構築する作業は、非常に高度な技術と労力を要します。データのクレンジング、意味付け、関係性の定義など、初期構築には専門的な知見と時間が必要です。特に、金融システムのような複雑なドメイン知識を伴う場合、その難易度はさらに高まります。
2. データの鮮度とメンテナンス
ナレッジグラフは一度構築したら終わりではなく、常に最新の情報に更新し続ける必要があります。システム変更、規制改正、業務プロセスの変化などに応じて、ナレッジグラフも継続的にメンテナンスされなければ、参照される情報の陳腐化により、生成AIの精度が低下する可能性があります。この継続的な運用体制の確立が重要です。
3. セキュリティとガバナンス
勘定系システムが扱うデータは、顧客情報や機密性の高い業務情報を含みます。ナレッジグラフとしてこれらの情報を扱う際、厳格なセキュリティ対策とアクセス制御が不可欠です。また、生成AIの出力が適切であるかを検証するガバナンス体制や、責任の所在を明確にする枠組みの構築も重要となります。生成AIの情報漏洩リスク対策については、「生成AIの情報漏洩リスク対策:独自開発、セキュアサービス、RAGを解説」でも触れています。
4. 技術者の育成
ナレッジグラフ拡張RAGを最大限に活用するには、生成AIの知識だけでなく、ナレッジグラフの設計・構築・運用に関する専門知識、さらには対象となる業務ドメイン(金融業務など)に関する深い理解を持つ人材が必要です。これらの多様なスキルを兼ね備えた技術者の育成が急務となります。
今後の展望
これらの課題に対し、技術開発は急速に進んでいます。将来的には、以下のような進化が期待されます。
- 自動ナレッジグラフ構築技術の進化: 機械学習や自然言語処理技術のさらなる発展により、非構造化データからのエンティティ抽出や関係性定義がより自動化され、ナレッジグラフ構築の初期コストと労力が低減されるでしょう。
- リアルタイム連携の強化: 基幹システムや外部情報源とのリアルタイム連携が強化され、ナレッジグラフが常に最新の状態に保たれる仕組みがより容易に実現されると考えられます。
- より高度な推論能力: ナレッジグラフとLLMの融合がさらに進み、より複雑な因果関係や多段階の推論を必要とする質問にも、正確かつ論理的な回答を生成できるようになるでしょう。
- マルチモーダル対応: テキストだけでなく、画像や動画、音声といった多様な形式のデータもナレッジグラフの一部として取り込み、よりリッチな情報参照と生成が可能になる可能性があります。
ナレッジグラフ拡張RAGは、生成AIが単なるコンテンツ生成ツールに留まらず、企業の知的資産を最大限に活用し、高度な意思決定を支援する「インテリジェントエージェント」へと進化する重要なステップとなるでしょう。この技術の普及は、多くの産業において、生産性、品質、そしてイノベーションの加速に寄与すると期待されます。
まとめ
ソニー銀行が富士通と共同で勘定系システム開発に導入する「ナレッジグラフ拡張RAG」は、生成AIの精度と信頼性を飛躍的に高める画期的な技術です。
この技術は、企業が保有する膨大なデータの「関係性」を構造化するナレッジグラフと、大規模言語モデルの生成能力を組み合わせることで、複雑な金融システム開発における生産性向上、品質確保、そしてナレッジの有効活用という長年の課題に対する強力な解決策を提示しています。
2025年現在、生成AIのビジネス活用は新たなフェーズに入り、単にコンテンツを生成するだけでなく、企業固有の知識を深く理解し、高度な推論を伴う業務支援へと進化しています。ナレッジグラフ拡張RAGは、その最前線を走る技術の一つであり、金融業界のみならず、高度な専門知識と正確性が求められるあらゆる分野において、AI活用の新たな可能性を切り開くものと期待されます。実装には課題も伴いますが、その克服に向けた技術革新と戦略的な取り組みが、未来のビジネス競争力を決定づけるでしょう。


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